(日本海を小樽へと向かう船中で「江の島だより2」を書き始めたものの、予想以上に揺れが激しくなり中断。やはり冬の日本海は侮れない。気圧配置は悪くなかったが、奥羽山脈から吹き降ろしてくる北東風に船首がダッチロールして波を叩いた。茫洋とした太平洋に較べれば日本海は大陸と列島に挟まれた内海に過ぎないが、それだけに波は鋭く短いストロークで突き刺さってくる。太平洋を50mプールとするなら日本海は洗面器みたいなもの。揺すってみれば波動の違いが判る。とはいえ50mプールをどうやって揺する? と、これはすでに夢のなかで考えていた…◆定刻より2時間遅れて小樽港に接岸。ライトアップされた運河が美しい◆20日ぶりに北都に戻ってきた。「江の島だより2」はまだ雪深い福井の寓居で書き継ぐことになる)
やっぱりこの人怪しい、とよし子は思った。使いつけのクレンジングを訊ねたところ、男はなんの気負いも衒いもなく「ファンゴダブルクレンズ」と答えたのだ。
“遅い・重たい”を地で行くこのクレンジングを敬遠する女性は多いのに(でもうちで一番売れてるのだけれど)、男性、しかもこのオジサンが愛用してるですって? よし子に言わせればこれは「究極のクレンジング」で、ここから先はない。いったんこの商品にハマればずっと使い続けるか、やがて“遅い・重たい”に疲れてもっとスピーディなタイプ(たとえばオイル)に切り替えるかのどちらかである。単に落とすだけなら、そこらのドラッグに行けば“早い・軽い”だけでなく、もっと“安い”クレンジングがいっぱいある。しかも機能に遜色はない。
だが化粧品専門店に来るような人はそれでは満足できない。たとえ少々高くても、機能を優先させるとしても、“落とす”という行為に何がしかの意味を与えているのだ。あるいはそのプロセス全体を味わっている、とも言える。落とすぶんには充分でも、安物にはこの最初の化粧行為を日々の“リチュアル”とする何かが欠けている。クレンジングをしながら一日を振り返るとき、ほろ苦い悔恨や、つい心が温もってしまう小さな悦びが甦る。とともに明日を思い、ささやかな決意をする一方で漠とした不安が頭をもたげたりもする。塗り重ねたものが溶けてゆくのを掌に感じながら、人生全体とは言わないけれど、わたしたちは遠くない過去と未来を行き来しているのだ。昨日みたいに厭な客に会いませんように。明日もまた平穏な一日が送れますように、と。
要するに「クレンジングとは祈り」だから──よし子は心のなかで舌を出した。これ、近所の本屋に平積みされていたなんとか小太郎という人の『化粧と時間』に書いてあったもん。表紙にシモネッタ・ヴェスプッチの肖像を配したショッキングピンクの装丁がいやでも目を惹いた。興味津々で手に取ったけれど、小太郎さんとやらはハイデガー(って誰?)がどうのこうのと言っていてよく判らなかった。でもパラパラとページを繰っているうち偶然その言葉を見つけたんだ。
「クレンジングとは形而上学なき現代の祈りである。」
わたし、心が震えた。理解できてもできなくても、こんな感情を揺さぶる言葉が詰まった本をそのままにしては去れない。だってこれ、「形而上学」(なんて読むのかしら?)という言葉はさておいて、つね日ごろわたしがクレンジングに思い入れてることと同じじゃない。わたしは発作的に上から二冊目を抜き取ってレジカウンターに持っていった。レジを打つオヤジの小馬鹿にしたような笑いに一瞬ムッとしたけれど。
(注:その夜、よし子は確かに『化粧と時間』を開いた。風呂から上がり、濡れた髪のまま淡麗グリーン500缶の口を開け、一気に半分近く飲んだところで見開きと奥付を見た。それからもうひと口飲んで髪を乾かし、化粧水と乳液を一緒くたにコットンに含ませて「ショートカット」した。一刻も早く昼間の続きを読みたかった。いや、正確にはあの祈りのくだりをまず見つけて、その近辺から読み始めようと思っていた。何しろ活字ばかりが躍る本を読むのは久しぶりである。見当をつけたところに「祈り」はなく、ページを行きつ戻りつしているうち淡麗グリーン500缶が空になったので冷蔵庫からもう1本出してきた。2本目も残り少なくなったころ、よし子は「もう!」と叫んで『化粧と時間』の背表紙をつまみ、頭の上でヒラヒラさせた。だが、どこかのページに挟み忘れた1万円札が落ちてくるようには「祈り」は落ちてこなかった。そこに朱線を引くつもりでせっかく赤鉛筆まで用意していたのに。「くそー!」いつのまにか角ハイボール缶〈濃いめ〉を手にしていたよし子は本を放り投げ、殻付きピーナッツに爪を立てた。「いったいどこ行ったんだよお。大体、字が多過ぎんだよお」女呑兵衛はいまは2メートル先の床の上にある『化粧と時間』を据わった目で睨みながら、とめどなく呪いの言葉を投げつけていた)
「それは221ページの8行目にある」
「えっ!?」
「君が探してた祈りのくだりだよ」
ちょっと、ちょっと。何なの、これ。ただ者ではないとか、やっぱり怪しいとか言ってる場合じゃないでしょ。しかもこのオジサン、本文ではなくてカッコ内の「注:」を受けて喋ってる。そこはこの物語の作者が勝手に闖入してきた部分でしょう…。
「うん。まさにケイジジョーガク的厚かましさでもってね」
「は?」
「君が読めなかった言葉だよ」
「いやだー」
よし子は思わず顔を赤らめた。読み方が判らないなりにも、黙読するとき不便なので適当にこう読み下していたのだ。
「クレンジングとはカタチなんちゃらウエマナバなき現代の祈りである。」
まあ、いいか。主語と述語は合ってるのだから、意味は通る。にしても「形而上学」の読み方が判ったいま(その意味は判らないにしろ)、「カタチなんちゃらウエマナバなき」と読めば笑ってしまうだろう。少なくとも、心が震えたりはしない。コトセンなら震えるけどね。ずっとまえに行ったあるメーカーのセミナーで、某講師先生、偽善に満ちた好事例を紹介したあとで、「いい話でしたぁ。感動でわたしのコトセンが震えましたぁ」と真顔で言ってたっけ。それを言うなら「キンセン(琴線)に触れる」でしょ、と心のなかでツッコんでいたわたしだったけど大きな顔はできないわね。
「日本語は難しい。というか厄介な言葉だ」
ウッソォー!? 「読心術…ですか?」
「私は『読顔術』と呼んでいる。そもそも読心術の80%は表情に依拠しているのだから、残り20%の身振り手振りなどは無視していい。人間は顔がすべてなんだ」
(2-c につづく)